結果発表へ



ゼッカード・ファンドラッド

 


 記憶の底から


記憶の底で、何かがくすぶるような感覚がすることがある。それが、あの頃は何であるか、彼は知らなかったのだ。


 大雪の日に、彼は連邦の首都を歩きながら、上を見ていた。煙草の煙に包まれたように視界の悪い日である。ザクザクと足下でアイスバーンに変わりかけた雪が、音を立てて踏み砕かれていく。交通整理の警官が、目の端で確認できて、渋滞しているのもわかっていた。
 ベージュのコートを着込んだ彼は、あまり寒さを感じなかった。ただ、内ポケットに入ったシガレットケースが気になって仕方がないだけだ。道のど真ん中で煙草は吸えないので、彼は我慢していたのである。煙草がどうして好きなのかはよくわからないが、何となく落ち着くのだった。
 雪は頭上からふわふわと降ってきていた。
「よく降る日だ…。今日は、どうせ首都にいるつもりだからいいが…。帰るなら足止めをくらったな…」
 ファンドラッドは、思わず自分のスケジュールの偶然に感謝する。駅などで一泊することになると面倒だ。
 除雪機が休みなく動いても、雪を溶かして排除する機械が街全体に埋め込まれていても、まだ人間は自然の驚異というものに完全に勝つことはできないのだ。
 でも、それもいいことなのかもしれないと、ふとファンドラッドは思うことがあるのである。
 北方にある首都は雪の降りやすい土地だ。ファンドラッドは、泊まっているホテルへの帰途を急ぎながら、ある通りを通った。
 そして、ふと一人の少年が走っていくのを見た。少し薄汚い服に帽子をかぶった少年で、それはこの大雪の中ではあまりにも寒そうだった。
 年齢は十二、三といった所に見える。彼は必死の様子で、なにかからひたすら逃げていた。彼が逃げてきた先を覗いて、ファンドラッドはふと気づいた。
(ああ、そうか…)
 そこには、あたたかい色調の大衆食堂が建っていた。そして、彼を追いかけてそこの主人らしき者が飛び出してきていた。
 きっとそうだ。とファンドラッドは思った。
 あの少年は、あまりに寒くて、腹も減っていたから、温かくてうまいものを食べたかったのだろう。
 と、何か、記憶の底の方から映像が蘇ってきた。
 それも、雪の日のものだった。 



 小さな少年がしくしくと道ばたで泣いているのが見えた。まだ、幼かった彼は、そうっと少年に近づいた。
 雪の降っている日だった。たくさん服も着ているから寒いはずもないのに、体が軋みそうな寒い日だった。雪が絨毯のように地面を覆っていた。少年は、何も敷物もせずに、その上に座り込んでいた。
 凍りそうな日にどうして泣いているのだろう、と彼は不思議に思った。涙は体温を帯びて熱いものだ。だが、結局水は水で、こんな日に泣いていたら顔の方から凍ってしまうのではないだろうか。と、彼は少し不思議に思った。
「どうして泣いているんだい?」
 近づいていって、彼は少し微笑んだ。少年は泣き顔をあげた。寒くて頬が赤くなっている。
「どうしてって…」
 少年は、見てわからないのか、と言いたげにじっと彼の方を上目遣いで見た。彼は首を傾げるだけで、少年の意図するところがわからないようだった。
「寒いのかい?」
「あ、当たり前だろ…」
 思わず強い口調でいったが、それ以上怒鳴る元気もない。空腹と寒さが酷いからだ。
 彼は、少し迷ってから、そして思いついたようにコートを脱ぐと少年に渡した。
「これがあれば寒くないよね?」
「え?」
 きょとんとして、少年は彼を見上げた。
「お兄ちゃん、これくれるのかい?」
「ああいいよ。もしよかったら、そこのポケットにお金が入っているんだ。それも使ってもいいよ。」
 ぱあっと少年の顔が明るくなる。彼も、少しだけ嬉しくなって微笑む。少なくとも、泣き顔だった少年を喜ばせることはできたのだから、これはいいことに違いないと思ったのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
 少年はそういうと、温かいコートを着込んで立ち上がる。先程まで泣いていたのに、途端元気が出たようで、彼もホッとした。
 少年は、でも、といって彼をのぞき込む。セーターとマフラーだけの彼を見て、少年は寒そうだとでも思ったのだろうか。
「お兄ちゃんは、それでいいのかい?」
 訊かれて彼は微笑んだ。
「私は全然平気なんだ。」
「そうなのかい?」
 その様子に強がりを感じなかったらしい。少年は、少し納得した様子で、深くうなずいた。
「ありがとう、ありがとう。」
 何度も繰り返しいって、少年は向こうの方に走っていった。彼にはその時、なぜ少年が走っていったのかがわからなかった。だが、今思えば、あの時少年にはきっと連れがいたのだろう。彼はもらったお金とコートを持っていって、その連れを助けようとしたに違いない。
「何をしているのだね、ラグ。」
 不意に声が聞こえ、彼は振り返る。貴族然とした上品そうな男は、何か神経質そうな危ういものに見えたが、彼には見慣れていた。
「コートはどこにやったのだ? 寒いんじゃないのか?」
 心配そうに眉をひそめ、男はそういった。
「いいえ、私は平気です。」
「平気なわけないだろう? 人間はこの寒さの中、そのままで生きていけないのだからな。」
 困惑気味にいった男は、さあ早く新しいコートを買ってこようと急かす。彼は、この男がどうしてここまで自分の世話を焼いてくれるのか理由がわからなかった。後に、彼が自分を死んだ息子の代わりのように思っているということがわかり、彼がその息子に罪滅ぼしをしているのだということがわかるまで、彼はいっこうにその理由をしらない。
「人間は生きていけないとおっしゃいましたね。」
 と、彼は珍しく聞き返した。あまり自分から口をきかない彼がそういったので、男は少し驚いた様子で振り返る。
「ああ、そうだ。これほど大雪が降って寒いときっと凍死してしまうだろう。」
「そうですか。…では、あの子は…」
「あの子…」
 一瞬怪訝そうに眉をひそめた男は、しかし、次の瞬間には表情をゆるめていた。
「そうか、その辺りにいた子供にコートをあげてしまったのか。それはいいことをした。」
 男は満足そうにいった。それは彼の成長を歓迎してのことである。
 今思い返せば、になってしまうが、その男には慈善的な所はほとんどなかった。そんなものに最初から興味をもつような人間ではなかった。あの時は、それがいいことなのだと思って、男自身もいい人なのだな、と思っていたが、きっとそれは違うのだろう。
 だが、何にしろ、あの時彼は褒められて嬉しかった。認めてもらったのだと知ると、出来損ないのような自分でも、人を喜ばせることができるのだと思って、さんざん喜んだのだ。



 ――でも、あの行動は正しくなんかない。
 と、今の彼は苦々しく思うのだ。
 あの後、あの少年がどうなったか彼は知らない。生きていてくれれば、と願うが、もしかしたらいないかもしれない。あの寒さの中、あんな少ない有り金で、どれほどまで持ちこたえられただろうか。今の彼なら、きっと他の方法を思いついただろう。
 あの少年が100%助かる方法というものを――
 だから、あの少年を助けたことにはならないのだ。あれぐらいで喜んでいた自分が、何か許せないような気持ちになる。
 記憶の底で、何かが焦れったくくすぶるのは、間違いなく後悔しているからに違いない。あの時、自分がこの世の中をよくわかっていなかったばかりに、ろくな行動を取れなかった事へのだろう。
それは、後々、あれこれ世の中を知るようになってから、彼が痛感したことでもあるのだ。



「なあ、爺さん。」
 雪の降る日に、子供二人を連れて買い物にでたファンドラッドは、喫煙室で煙草を吸っていた。だが、ジャックに呼ばれて仕方がなく煙草をもみ消し、外に出てきた。
「何のようだ。」
「なあ、そろそろ昼飯が食べたいなあ。オムライスおごってよ。シェロルだっておなか空いてるっていってたし。爺さんはいいんだよ? 煙草吸ってたって。」
「お前、私から金だけ巻き上げようという魂胆だろう。」
 呆れたようにいうと、ジャックはむっとした顔になる。
「いいだろ〜。オムライス代ぐらい! 安いもんじゃないか!」
「お前はいつもそうやって私をたばかろうとする。」
「たばかってないもん!」
 まったく、といってファンドラッドは、ジャックを見る。結局預かることになってしまったジャックは、雪の街からここに来た。少なくとも、もう凍えることも、食い逃げをする必要もなくなっている。
 ファンドラッドは何となく安堵した気持ちになった。昔、ちゃんと助けられなかったあの少年も、これなら許してくれるだろうか。
「ねえ、爺さんってばあ!」
「仕方のない子だね。わかった。その代わり、私も一緒に行く。」
「ええ、来なくていいのに! オレとシェロルの逢い引き(ランデブー)を壊すわけ?」
 やはり金が目当てだったのか、それとも本当にシェロルと二人っきりを狙っていたのか、ジャックはそんなことをいった。むっとしたファンドラッドは、ジャックの額を軽く弾きながらズバリと言った。
「何が逢い引きだ! 君みたいな子には、シェロルとつきあわせないからね!」
「そんな!」
 ジャックは不服そうにいったが、結局進み始めたファンドラッドの後を追いかけてくる。
 わずかに煙草の匂いがするコートを翻し、ファンドラッドはジャックを相手にしないようにしながら、しかし彼をそうっと見守りながら歩くのだった。
 



 結果発表へ

©akihiko wataragi
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送