ならず者航海記・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2003
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 機械と銃弾

故郷に戻ってきたのは何年ぶりの事だったか。正確な年数を、彼は忘れてしまった。
それとなく色素の薄い金髪は肩の下ぐらいまであって、それを何気なくゴムで束ねていた。もちろん、おしゃれのためではない。髪を切るのが面倒だっただけである。目はセルリアン・ブルーに近い青で、なかなか上品で秀麗な顔をしているに関わらず、彼の格好は全くそれに似つかわしくない、ただ着の身着のまま着てきたというような格好だった。正確には、何かの作業服のようである。ところどころ、油のしみがついていた。その上に、しろいコートをはおっただけだ。伊達めがねらしく、度が入っている気配のないめがねをかけている。理系の学者風の印象の外見に、それはよくあった。
 フィリス=リデン=アンドレアス伯爵。爵位までつけて呼ぶとそうなる。子どもの頃、両親をなくしてからは、彼はイアード=サイドの学校の寮で育った。そのままトントン拍子に大学まで入り、いつの間にか機械工学の博士号まで取っていた。いくつか特許を持っていて、それだけで一生を食べられるだけの保証がある。もし、それがなくても、彼に残された遺産だけでも相当なものだった。
 彼が戻ってきたのは、都会の暮らしに飽きたからだった。壊れた屋敷を直してもらい、フィリスはそこに住む事になった。孤島にたった大きな屋敷である。時々、対岸の人々が、彼に頼まれた食料なり日用雑貨なりをもってきてくれるほか、人はあまり近寄らなかった。フィリスがそう望んだわけではないが、人には理解できないような怪しげな機械ばかり組み立てている、この旧家の当主に、周りの人々が不気味さを感じたのかもしれない。
 押し寄せるさざなみの音と、鼻をつく潮の香りは戻ってきた当初は懐かしかったが、慣れてくるに従い、滅多に感傷を感じさせないほどに彼の中に溶け込んできていた。だが、心地悪いものではない。むしろ、心は落ち着いた。
 フィリスは窓からぼんやり外を眺めながら、ブラックのコーヒーをすすっていた。近くの作業台には作りかけの機械とねじ回し、銅線がそのまま転がされている。近くに詳細に描かれた設計図が広げられていた。
 壁には、有名な映画女優、リーン=シャロンズの主演した映画のポスターが無骨な風景に異色の花を添えている。冒険映画なのか、剣を振り回す髭の美男子と後ろにワニの口が描かれていた。冒険映画であるのはわかるが、何の映画なのかはよくわからない。そのポスターにも油がしみこんでいた。
「…暇なもんだな。」
 フィリスはぼんやりと呟いた。暇なので、ラジオを持ってきてアンテナを立ててみる。ガーガーいう音に混じって、音楽が聞こえてきた。それに耳を済ませながら、暇つぶしに望遠鏡を持ち出して海でも眺めてみる。向こうに帆船の大きいのが見えていた。ついでに、孤島の回りものぞいてみる。
 ふと、彼は眉をひそめた。この孤島には彼しかいないはずなのに、砂浜に船が流れ着いていたのだ。正確には船というより、ボートだった。人一人、二人ぐらいしか乗れないだろう。
(何だ?)
 最初は漂流物だと思ったが、そうでもないらしい。浜辺に足跡がついていた。
 誰が来たのだろう。確か頼んでおいた野菜も肉も、昨日全部届けられた。可能性があるとしたら、町の本屋に取り寄せを頼んだ本か……今までなかったことだが、ここに誰か来訪者がやってきたということかもしれない。いや、もしかしたら、ただ迷い込んだだけかもしれない。
 フィリスは、そんな事に考えをめぐらせていたが、何となく面倒になったのでコーヒーを置いて窓際から作業台に移った。考えている時間がもったいないと思ったのだ。
ハンダゴテを手にして、じっくりと作業を始める。何か鳥のような外観を持っていたが、まだそれはよくわからない。設計図の方には、どうやら鸚鵡かインコをモデルにしたらしい、やはり鳥のようなものが描かれていた。
 いきなり、がしゃあん!と、ガラスの割れる音がした。フィリスは、はんだをする手を止めて、こてを置いた。一体なんだろう。鳥でも飛び込んだのだろうか。
 フィリスは様子をみるために、とりあえず部屋の外に出ようとした。
 その時、いきなり銃声がフィリスの耳をつんざいた。
「動くんじゃねえ…」
 低い声が響いた。フィリスがそちらを見ると入り口の辺りに、男が立っていた。男はかなりげっそりとやせていた。明るい茶色の髪の毛は、長く伸び、無精ひげもかなりひどく生えていた。前髪が彼の右目を隠してしまって見えないが、左目のほうは、やけにギラギラと殺気ばしって輝いていた。体にはぼろぼろになった服をまとっていた。
「……何のようだ?」
 フィリスは動じた様子も無く尋ねた。男の手には銃が握られている。見かけはああだが、男はまだ若いらしかった。
 さっきみたボートと足跡はこの男のものだったようである。
「もしかして、強盗というやつか?」
 フィリスはのんきにそんな事を言った。男はそれを無視してぶっきらぼうに言う。
「まず……食い物をよこせ。」
「それなら、この部屋にはないな。」
 フィリスはぐるりと周りを見回して見せた。何処を見ても、ねじや油や鉄くずのようなものしかなかった。
「向こうに冷蔵庫があるはずだが…」
 フィリスは不意につけっぱなしのラジオが気になった。こんな状況にも関わらず、ラジオは雑音混じりに陽気な曲を奏でたままだ。それを消そうと窓に近づこうとしたとき、いきなりラジオの方が音を立てて弾け、壊れた。男が撃ったからに違いなかった。
「動くなといったはずだ!」
「ラジオを消そうとしただけだ。」
 フィリスは無表情にそう答えた。元から、あまり感情が顔に出るタイプではない。
「もったいないまねをするな。これは、私が開発した特別製の…」
 思わず説明しようとしたフィリスを男は冷たく遮る。
「能書きは聞きたくねえ…。お前が案内しろ…。」
「冷蔵庫にか?」
 フィリスは軽く肩をすくめた。
「台所はわかりやすいところにある。私が案内するほどのものでもあるまいに。私は時間の無駄というのが嫌いだ。ひとりでいってくればいいだろう?」
「黙れ…!」
 男はきつい口調で言った。
「…いまから口をきくな!…誰かに助けを呼ぶようなまねをしたら、即殺す!」
「助けを呼ぶような相手はここにはいないがな。」
 フィリスは言って、仕方なく歩き始めた。あまり刺激させるのもよくないだろう。ふと、思い出したように付け加える。
「あ、さっきのラジオだが。別に無線などではない。…警察に言う気でもなければ、助けを呼べるはずもなかったのだがな。」
「しゃべるなといったはずだ!」
「いや、誤解しているようだったから一応教えてやったのだが。」
 けろりとした顔でそんな事をいい、フィリスは男の前に回った。そのまま、彼は銃を突きつけてくる。
 ふと、フィリスは男の足を見た。先程からどうも足を引きずっていると思ったら、男は右足を負傷しているようだった。時折、血がにじんでいる。
「……」
「何だ…。」
 男は、冷たく笑った。
「…怪我をしているからといって、てめえ一人じゃオレはおさえられないぜ…。下手な事は考えるな!」
「そんな事を考えるほど、私は無謀ではない。」
 フィリスは淡々としたいつもの口調でそう答える。事実、フィリスは力には自信も無かったし、ここで彼と戦って勝つ自信も無かった。それに、戦う気も無かった。
「…まぁいいか。先に案内はしてやろう。」
 フィリスは、何かぞんざいに言って、脅されているとは思えないほど、冷静な態度をとって彼を案内して行った。彼を脅しているはずの男が、妙に居心地悪そうな顔をした。だが、一旦仕掛けた以上、引く事はできない。彼にはそんな余裕がなかった。

 食べ物を文字通りむさぼるというのはこういう事なのだな。とフィリスは思った。
 男はよほど空腹だったのだろうか、食べ物を手当たり次第口に押し込んでいる。眺めていると時折、髪の毛が揺れ、男の右半面に、凄まじい刀傷の跡がちらついた。その形を正確には覚えていなかったが、傷が交差しているのが、少し異様で印象深かった。
「何だ。結局空腹だっただけか?」
 フィリスは、ぼんやりそれを眺めながら言う。ひく、と男は手を止めた。
「口をきくなといったはずだ!」
「一々そう目くじらを立てる事は無いだろう。」
 フィリスは半ばあきれたように言った。
「人間しゃべらないと死んでしまう。」
「…無口な奴は世の中に幾らでもいるぜ。」
 あまりに饒舌なフィリスをあしらうように男は言った。鬱陶しがっているのは一目瞭然である。
「なるほどな。それもそうだが。だが、人間というものはだな。」
「能書きはいいといったはずだ!命が惜しくねえのか!」
「命は惜しいが、能書きはたれておきたい。」
 フィリスはずばりと本音を言った。
「…と、まぁ、あまりあんたを刺激させる気はないので、この辺にしておこうか。」
十分刺激させたという自覚があるのか、ないのか、フィリスはそういって台所の壁にもたれかかった。しばらく、フィリスを睨みつけた後、男はまた食事に戻った。
 ふらっとフィリスがどこかに行こうとしたので、男は拳銃を構えなおして叫んだ。
「何処へ行く!」
「…家の中を歩き回るぐらい構わないだろう?」
「…ダメだ!」
「安心しろ。別に助けを呼ぶつもりではない。」
 フィリスがあまりにも妙な事をいうので、男は顔を少ししかめた。何を言い出すのだろう。この半ば貴族風の顔立ちの男は。世間知らずにしたって、この反応はおかしすぎる。
「隣の部屋だ。ついてきてもかまわないし、もし声が聞こえたらそのまま走ってきて、それから私を撃ち殺しても遅くないだろう?助けが来る前に、逃げる事も可能だ。この島には私しかいないし、それは確認していると思ったが…」
 男は黙り込んだ。確かにそうだろう。彼はこの屋敷の中に何人人がいるか、一応確認していた。結果、フィリスひとりしか居ない事も把握していた。それに、フィリスの相手をするのが、はっきりいってめんどうだったのだ。
「……一分間許す。さっさと行ってこい!」
「三分の方がいい。」
「一分にしろ!!」
 しつこいフィリスに男は怒鳴りつけた。このまま撃ち殺してもいいような気がしたが、何とか理性でそれをとどめる。
「じゃあ、一分三十五秒ぐらいで行って来るとしよう。」
「……」
 相手をするのが鬱陶しくて男はもう返事をしなかった。フィリスはそれを肯定と受け取ったようだった。軽い足取りで向こうに走っていく。
 フィリスの姿が見えなくなってから、男は食料品で散らかった床に座り込んで額を押さえた。
「…くそ…」
 右足の傷がずきりと痛んだ。化膿しているかもしれない。
「……あの野郎…。オレに賞金をかけやがって…」
 軽く傷をおさえながら、男は吐き捨てた。頭に痛みが響き、彼は飲み食いするのを一時やめた。

 フォーダート。というのが、彼のいわば本名だった。通り名は別にある。それも片手の指では余るほどにつけられているようだったが、本人はその半分ぐらいも知らない。
 この前、大物の海賊の船に一人で突っ込んで、金品を略奪して帰ってきた。大した量ではなかったが、何にしろ、喧嘩を売ってそのまま逃げおおせたのだから、彼らは大きく恥じをかかされたということになるだろう。それが彼の名前を高めるのと同時に、深い恨みをかった。それから、彼は随分と刺客に追い掛け回される日々をすごしてきた。
 放浪の中、うばった金はそこをついた。しかも、三日前に賞金稼ぎに、狙われて足を撃たれた。それから、逃げ続けたせいもあり、ここのところ三日間何も口にしていなかった。空腹と傷の痛みが限界になったとき、とうとうフォーダートは強盗することを決意したのである。ボートに乗って漂流していたとき、一番近いのがここだったから、ここに入っただけだった。
 堅気相手にこんな事をするのは、彼にしてみればほとんどはじめてだった。いや、正確には、小さい頃にしたことがあったかもしれない。彼にしても、少々動揺していた事はあるかもしれない。だからといって、この失態は何なのだろう。

 かたん、と足音が聞こえ、彼は顔を上げた。
 いきなりどんと音をたて、何かが床を打った。はっとしてフォーダートは顔を上げ、同時に銃のグリップを急いで握る。
「一分過ぎたかな?」
 のんきな声が返ってきた。
「ほら。それを貸してやろう。」
 フィリスが投げ込んできたのは、救急箱だった。投げ込まれた拍子に箱のふたが外れて、消毒液や包帯が零れ落ちた。
「私は医者ではないが、その傷は放っておくと危ないぞ。」
「……」
 黙ったまま、男はこちらを睨みつけてくる。フィリスはややあきれたような顔をした。
「まぁ、別に私の知った事ではないのだがな。」
 黙っているフォーダートにフィリスは更に一人でしゃべりかけた。
「あぁ、私の名はフィリスという。」
 彼は続ける。
「次は何が所望だ?金か?」
 フォーダートが黙っているので、フィリスは少し覗き込むように彼の表情をうかがった。
「まぁ、その怪我と状態じゃ、外には出て行けないんだろうな。しばらく、適当にその辺でくつろいでいてくれ。」
「何処へ行く!?」
 フォーダートは声を張り上げた。
「作業室だ。…気になるならついてくればいいだろう?」
 フィリスは言って、すたすた行ってしまう。何となく殺気をそがれた形で、フォーダートは引き金を引くのをやめた。黙り込み、フォーダートは銃を一旦下ろす。
 撃ってもよかった。
 撃たなかったのは、フィリスの言っていることが正しかったからだ。確かに、この島は離れすぎている。言うとおり、彼らが来る前までにフォーダートはいつでも相手を殺せるし、また、逃げたところですぐに逃げられもしない。武器をもってきたとしても、あの男の細腕で自分を殺せるとは思えなかった。有利なのは自分なのである。
 ため息をつくと、フォーダートは使える方の足で乱暴に救急箱を引き寄せた。そこから、使えそうな消毒薬や綿、包帯を取り出し、まず水を含ませた綿で傷口を拭いた。フィリスの言うとおり、傷の手当てをしておかなければ、下手をすると片足がダメになるかもしれない。そうなって困るのは自分だった。生きていけないかもしれないのである。


 「作業室」は、石造りの部屋を改造したものだった。溶接の道具などが無造作に置かれている。所々、油で洗浄された部品がバケツの中に突っ込まれていた。やけに機械油の匂いがすると思ったら、そのせいのようである。
 フォーダートは、注意深くその部屋に入った。自己申告の通り、フィリスはそこで溶接に没頭している。バチバチ音が鳴り、スパークを直接目で見てしまったフォーダートは残像を目に映らせてしまった。鬱陶しく思いながら、しばらく消えるのを待つ。
「あぁ、悪い。」
 溶接する手を止めて、フィリスはこちらを振り向いた。悪気はないが、にこやかでもない笑みを浮かべ、目を保護するためにかぶっていたものを取る。
「あんたに嘘はついてないだろう?」
 フィリスが言うのを、フォーダートは無言でやり過ごした。
「……何をしているんだ?」
 初めてフォーダートがまともに彼に話しかけたのもあってか、フィリスは少し嬉しそうに答える。
「そうだな、機械のしゃべる鳥をつくろうと思ってな。いわゆるロボットという奴だ。あんたもSF小説で読んだ事ぐらいあるだろう。それを作ろうと思っている。まぁ、自由にはしゃべれないだろうが、まずは試作品だ。」
 フィリスはべらべらと続けた。
「私は天才なのでな…、色んなものが作れるのだ。わかるか?」
「…何が楽しいんだ。」
 フォーダートは馬鹿にしたような口調で言った。
「能天気な奴だな。」
「そういわれたのは初めてだ。」
 フィリスは、言ってまた溶接に戻る。皮肉で言ったのに、まるで通じていないので、フォーダートは妙な顔をした。
「……そうそう」
 フィリスは言った。
「あんたほど背が高くないから、合うかどうかはわからないが、その辺のダンボールに服が詰め込んである。必要ならもっていけばいい。」
 フォーダートは黙っていた。この不可解な男をどうして扱えば良いのか、迷っていた。だが、彼の言ったとおり、しばらく足が痛む。このまま外に出れば、そこを狙われて殺されるかもしれない。まだ刺客がうろついているはずだ。もう少しだけ、ここにいなければいけなかった。
 それにしても、どうして自分にこんな風に親切に接するのか。人質と犯人が仲良くなるという現象があるという事を、フォーダートはわずかに聞き知っていた。だが、それにしても、早すぎる。なぜ、自分を恐がらないのか、それに……。
 こんな屋敷の中でひとり住まいの貴族風の青年…。普通は召使などもいるだろうに。
 考えるとわからなかった。
 フォーダートは黙っていた。フィリスは、彼に気づいたらしく首をわずかにかしげる。
「どうした?」
「……」
 彼はやはり無言で、フィリスを睨みつけていた。冷たい目だった。


 結局、この奇妙な事態は、二日たっても続いていた。お互い干渉は最低限しかしない。フィリスは、彼がいることすら時々忘れていた。だが、彼のほうは眠っているときですら、拳銃のグリップから手を放さない。弾丸は全て装てんしているし、いつでも撃てる様にはしていた。ぼろぼろの服は、衛生的にも悪いと思ったのか、フィリスがすすめたよう、適当な服を選んで持っていったようだった。脅しもしないが、逃がしもしない。通報もしないが、相手を説得する事もしない。
 フィリスもそれは不思議な光景だと思っていた。当事者が自分だという事を忘れて客観的に見れば、それは目を疑うような状態に違いない。だが、フィリスは、別にどうでもいいと思っていた。
 その日、フィリスは、作業室で毛布をかぶって深夜まで、設計図とにらめっこをしていた。例の男は、この屋敷にまだ立てこもっているのだが、フィリスはそれを何とも思っていないかのように、日常の生活を続ける。フィリスは滅多に寝室で眠らなかった。作業室で、機械と鉄くずと共に眠るのが常である。部屋からでないのなら、彼と顔を合わす機会も少なかった。
 鉛筆をかつかつ動かしていると思うと、消しゴムでそれを消したり、はたまたくるくるとそれを回したりする。設計にミスが見つかったが、その修正がうまくいかないのだ。
「…どうもうまくいかんなあ。」
 フィリスは少しため息をついた。珍しい事だった。彼はこういう風に作業で行き詰ったとき以外、ため息をつく事もない。
「…どこが間違っているのか。」
 考えてもうまく解決できそうにない。フィリスの頭の中には、数式と材料と空間的なイメージがぐるぐるぐるぐると回っていた。
「コーヒーブレイクにしよう。」
 フィリスは、終わりのない数式の渦にきっぱりと見切りをつけて、その場で一切を切り捨て、コーヒーの事を考えるようにした。芳しい匂い…というほど、コーヒーにこだわる方ではない。インスタントで十分である。フィリスは、ブランドにも何にもこだわっていなかった。貴族の子弟にはあるまじき事なのかもしれないが、フィリスは外見を飾る事にも、つくろう事にも、全く興味がなかった。
 お湯を沸かしにフィリスは台所に向かう。
「面倒だ。」
 とフィリスは呟いた。
「今度は自動湯沸かし器でも作っておこう。」
 次の作品は役に立つものにしようと、少し心に決める。役に立たないどうでもいいものの方が作っていて楽しいのだが、後でただのガラクタと化す。おき場所に困って、部屋の隅に放り投げるのが常なのだった。おかげで、彼の屋敷は、入ったものだけが知る、はずれた歯車やおかしなねじが転がる奇怪なメカ屋敷と化していた。
 台所で湯を沸かし、コーヒーといいながら空腹だったのでついでにインスタントのカップ麺を引き出して湯を注ぎ、三分間待ってみる。この前、町から取り寄せたものだ。どこかの国で開発されたとか言う、そのカップ麺は、フィリスのような生活をするものには、必需品とはいえた。
 いそいそとそれをもって作業室に戻ろうとしたとき、フィリスは不意に煌々と付いた二階の元客間に目を止めた。計算していたのですっかり忘れていたが、あそこの部屋に例の男が立てこもっている。
 フィリスは、ふと持っているカップ麺を見た。少しためらったのは、もう一度、湯を沸かすのが面倒だったからに他ならない。
「…まぁいいか。恵んでやろう。」
 フィリスは呟くと、諦めをつけてそれを持っていった。
 
 音が鳴ったので、フォーダートは目を覚ました。反射的に拳銃の引き金に指をかける。毛布を引きずりながら、起き上がると、開けっ放しのドアの下に湯気の立つカップ麺が割り箸と一緒に置かれていた。
 フォーダートは一瞬それに気を引かれ、ふらりと近づいた。何か、悲しそうな、少し驚いたような、優しそうな目をしたが、それもまた、一瞬に過ぎなかった。
 フォーダートはそれを蹴倒した。スープと麺が一緒くたになって床にしみこんでいく。まるで憎悪でもたぎらすような目をして、それを見た後、急に哀しそうな表情をして床に座り込んだ。
 自分が急に哀れに思えて、フォーダートは頭を抱えた。
「ちくしょう…!」
 小声で吐き捨てる。
 人の親切を受け取れない自分が哀れなのか、哀れまれているとしか思えない自分が哀れなのか、それすらもわからず、ただ悔しかった。
 何処に行けばいいのかもわからなかった。誰に聞く事もできないし、誰も教えてもくれない。行き着く先が深い闇だろうと、奈落の底だろうと、フォーダートは、今来た道を引き返せなくなっていた。引き返し方がわからなくなっていたのだ。
「……ちきしょう…」
 もう一度呟いてみる。何が腹立たしいのかわからないが、どろどろの炎が流れていくような、そんな感覚が全身を覆っているようだった。

 
 翌日、作業室で積極的に機械をいじっていたフィリスの元に、フォーダートがやってきた。
「…金が欲しい。」
「…ほほう、ようやくそれか。」
 フィリスはいった。
「いつか言われるだろうと思っていた。この隣の部屋に金庫があるだろう。予め、開けてある。好きなだけ取っていくといい。…ただし、私を殺さないと約束するならな。」
 フォーダートは皮肉っぽい笑い方をした。
「…それはどうだかわからねえぜ。お前はオレの顔をいやって言うほど見てるからな。」
「口封じか?…私は警察にあんたを突き出す気はない。」
「口先ばかりならどうとでも言えるぜ。」
 フォーダートは笑いながら、冷酷にいった。
「そういわれてもな。口封じで殺されては私の天才的な才能が可愛そうだ。それに、この機械鸚鵡は現在製作中でな。」
 フィリスは冷静である。
「それにだ、口封じをするくらいなら、私のこの天才的な才能を利用する方がまだいくらかましだというものだぞ。」
 フォーダートは、うんざりとした顔をした。“天才”フィリスの持論は聞き飽きていた。
「…はっ!またてめえのわけのわからねえ論理か?天才だかなんだかしらねえが、世の中は理屈じゃ渡っていけねえんだよ!てめえの才能がどんなもんかしらねえが、役に立つと信じてるのはてめえだけじゃねえか!」
「それは十分わかっている。」
 フィリスは、言いながらドライバーを回してねじを止める。
「理屈をいうのは私の癖であってただそれだけの事だ。天才なのは本当だが、別にそれを自慢しているわけではない。事実だから言っているだけだ。よって、必ず私は役に立つ人材だ。」
「もういい!てめえの話は聞き飽きたぜ!」
 フォーダートは、この半ば狂気じみた科学者の話に付き合っている自分が馬鹿らしく思えた。
「とにかく、オレはもうここから出て行くぜ。…てめえを殺してからな!」
「その前に、何か食べていったらどうだ?」
 フィリスはなんでもないようにいったが、その言葉はフォーダートの癇に障った。
「また、それか?」
 ひくりと、頬を引きつらせる。
「オレを哀れんでるのか!?」
 彼は突然、怒鳴りつけた。
 ここに来た日から、どうして、この男は自分なんぞに親切に接するのか。昨日といい、今日といい。自分はそんなに可愛そうに見えるのか?そんな目で見られている事が、凄まじい屈辱に感じられた。許しがたいと思った。
「オレを馬鹿にしてるんじゃねえだろうな!貴様!」
「私は人を哀れむほど人情家ではない。」
 フィリスは当然のように応えてから、何かガチャガチャやっている。
「なんだ?何をいらだっているんだ?」
 フィリスは怪訝そうに振り返る。
「……別に何をいらだつ必要がある?ここは本当は私の屋敷だし、別に私がいいのならどうでもいいじゃないか。それでもいやだというのなら、出て行けばいいだけの事だろう?」
 フォーダートは、殺気走った目で彼を見ていた。毛を逆立てた獣のようだった。
 フィリスは別に動じた様子もない。
「…自分の家に来るものは客人だしな。」
 と応えた。
 フォーダートは、眉をひくりと動かした。
 何を言っているんだこいつは!
 よくわからない憤りが駆けていった。自分の立場がわからないのだろうか?馬鹿か!?
 血の上る頭で、冷静な部分が素早く分析を始める。いいや、違う。と、冷静な自分が言った。
 この男は、自分を客人扱いしている。…つまり、もてなしているつもりなのだ。人里はなれた孤島で暮らす青年貴族は、人恋しくてつい入り込んだ強盗に、親切にしてしまったに違いない。まるで、やってきた友達に優しく接するように。そんな陳腐な自己満足の対象になっているのを知って、フォーダートは益々憤りを強めた。
「なんだ?…オレを相手に友達ごっこでもしてるつもりか?…いい加減にしろ!オレはお前のくだらねえ遊びに付き合うのは、もう散々だ!」
 フォーダートは、机の上のものを全部叩き落した。けたたましい音とともに、床に文房具などが飛び散った。
「…てめえは、ひとりで寂しいんだろうがな!オレはてめえの勝手な思いに巻き込まれるなんざぁ、ごめんだ!」
「それは違うだろう。」
 フィリスは言った。予想も付かないほど静かな声だった。
「孤独で寂しいのは、お前のほうじゃないのか?」
 フォーダートの顔に、何か衝動が走るのが見て取れた。
「何だと…」
 押し殺した声が少し震えていたようだった。
「どういう意味だ!」
 フィリスは、振り返らなかった。
「私は確かに孤独かもしれないが、あんただって同じだろう?それに、何をそんなに怯えているんだ?何が恐いんだ?」
 フィリスは続けた。
「…そんな虚勢を張らなくても、あんたは十分強いだろうに。」
 フォーダートの顔は真っ青だった。震える左手はぐっと握られていた。いつ暴発してもおかしくない爆弾のような、危うい雰囲気が彼の周りに飛散した。 
「……上等じゃねえか…」
 フォーダートは、握っていた拳銃を構えなおした。怒りと屈辱のためか、少し指先が震えていた。
「…本当に死にたいらしいな…!」
「撃つなら腕と頭はよしてくれ。」
 フィリスは冷淡に言った。
「こいつが作れなくなる。」
「それだけか?」
 はっとフォーダートは冷笑した。
「…どっちにしても死ぬんだろ?関係ねえじゃねえかよ?」
「…それは困るな。私は信じてはいないが、もし、死後の世界があったら困るだろう?それに、もしかしたら来る未来ひょんなことから生き返って腕を振るえるかもしれない。色々な可能性があるし、それを考慮すると、この二つは失うには惜しすぎるな。」
「…じゃあ、それ以外ならいいんだろう?決めた。心臓をぶち抜いてやる!」
 フォーダートは冷たい目を向けた。
「……いいや、できるなら死にたくないな。」
 フィリスは言った。そして、振り返る。
 涼やかな目だったが、眼鏡のレンズ越しのその目には何か執念めいた輝きがあった。
「…私には、やりたい事がたくさんある。」
 それは凄まじいまでの生への執着でもあった。引き金に指をかけたまま、フォーダートは、しばらく黙っている。目の奥に、驚きの色が広がったのは、フィリスには見えなかった。
「撃つなら撃ってもいいが、…私は死にたくない。」
 きっぱりとした口調で言い切って、フィリスはそこに立っていた。それはフォーダートに、何か異様な威圧感を与えた。今の自分には、そこまで言い切れるものがあるだろうか。フォーダートは漠然とそんな事を頭にめぐらせた。
 かつて、泣き叫んで命乞いまでしたほど、みっともなく生きる事に執着していたくせに、今は一体自分はどうだろう。そんなこと、どうでもよかったような気がする。むしろ、半ば死に魅入られていたのかも知れない。どうでもよかった。おそらくそうだ。
 目の前のひ弱そうな青年がやけに強く見えた。悔しいような、泣きたいような、情けないような…腹立たしいような…複雑な気分に襲われる。フォーダートは、わずかに迷った。迷った末に、引き金を引いた。
 作りかけの鳥形の機械が、作業台から飛んで石造りの床に音を立てて転がった。フィリスは微動だにせず立っていた。
「……そうかよ…」
 フォーダートは小声で言った。
「………オレにはてめえのいうことは理解できねえ。」
 フィリスは、黙ったままだった。フォーダートは、フィリスに背を向けた。
「…勝手にしろ。」
 フィリスはまだ黙っていた。フォーダートはそのまま、振り返ることなく痛む足を半ばひきずるようにして部屋から出て行った。

 それっきり、彼は戻ってこなかった。

 フォーダートの姿が完全に見えなくなってから、フィリスは呪縛が解けたように後ろの作業台にもたれかかった。そして、ある事を思い出して、隣の部屋にいってみた。わざわざ開けてやった金庫は、そのまま放置されていた。中のものに手がつけられた気配はない。
「なんだ、…とっていかなかったのか。」
 フィリスは、手付かずのまま置かれた札束をみやった。
 富だけが幸せの象徴ではない事を、フィリスはいやほど知っている。別に金銭に執着はなかった。むしろ、あるだけ取っていってもらったほうが気が楽だとフィリスは思っていた。使い道のない金だ。ここに後百年もおいておけば、確実に朽ち果てて消えるだろう。そこにあるのは彼にとっては、何の意味も成さない紙くずだった。
 作業室に戻り、フィリスは弾き飛ばされた鳥のロボットを拾い上げた。九割方出来ていたロボットは、一発銃撃をうけて、そこだけ大きくへこんでいた。
 電源が偶然入ったらしく、それが片言の言葉をしゃべり始めた。
「オイシイ、マズイ、ヘタクソ、ステキ、タノシイ、ウレシイ」
 予めインプットしておいた言葉が機械的に羅列される。故障しているようだった。
「オマエハダレダ、ヘンナヤツメ」
 色んなものを入れておいたものだとフィリスは他人行儀に感心してみる。
「サミシイヤツダナ」
 不意に機械がそんなことをしゃべりだした。
「サミシイヤツダナ、サミシイヤツダナ、サミシイ…」
 故障しているらしかった。同じ台詞をずっと繰り返すばかりである。その言葉に、フィリスは少し苛立ちを覚えた。フィリスは鬱陶しそうにそれを少し見た後、ふっと窓の外に目をやった。
 もう、あの男の姿は見えなかったし、船も見えなかった。何処に行ったのだろう。ここに戻ってくる事がない事だけが、フィリスがわかる唯一の事実だった。
「そうだとも。私もあいつも寂しい奴だ。いわれなくてもわかっている。結局我々は同類だ。」
 電源を切ると、機械はしゃべらなくなった。
 フィリスは、立ち上がった。濃いブラックのコーヒーを飲みながら、冴える頭に、新たな作品の設計図を思い浮かべた。
あの男は、一体今何処を彷徨っているだろうか。フィリスは何となく、彼の無事を祈らずにはいられなかった。


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