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3.お兄ちゃん 八年前、ハティルで今のように町医者をやっていたアレクサンドラは、三年ほど前に引き取ったばかりのマリアと家政婦のエミリーと暮らしていた。その夜も、この平和で数の少ないハティルには急患もなく、そのまま平凡な一日を終えようとしていた。 今日はいい満月であった。診療所のリビングの窓からも月の光が入ってきている。 「今日はいい満月だねぇ。」 アレクサンドラの助手をやっていたジャックが茶を飲みながらいった。今は、十時を少し回った頃だった。ジャックは、住み込みで働いているひょろっとした感じの若い男だった。性格はかなりのんびりしている。 「今日は急患もなくって良かったよ。やっぱり人間、のんびりしているのが幸せだなあ。」 「何を言ってるんだね、この子は。どうしようもないわね。」 中年の人の良いおばさんといった感じのエミリーは、そういいながら笑った。少し小太りでぽっちゃりした感じの印象を与える彼女は、ジャックの前に作ってやった夜食を差し出した。 「どうせ、おなか空いているんでしょ?よかったら食べていいわよ。」 「ありがとう。おばさん。いやぁ、いっつも感謝してるよ!!」 ジャックは、満面の笑みを浮かべて、遠慮する節も見せずその夜食に飛びついた。今日の夜食は、卵とハムのはいったサンドイッチだった。 「仕方のない子だね。」 エミリーは、あきれながらも親切そうな視線をジャックに向けていた。 ふと、階段を下りてくる音がした。しばらくして現れた六歳の小さな子供に目を向けて、エミリーは、優しい声で呼びかける。 「まぁ、マリアちゃん。どうしたの?眠れないの。」 「うん。ちょっとね。あ、なにか食べてるの?あたしも欲しいな!」 サンドイッチのにおいをかぎつけたのか、マリアはゆっくりと二人の方にやってきた。 「ダメだよ。マリアちゃん。子供が寝る前に食べると太るんだから。」 「よくいうわね。ジャック。」 エミリーは、あきれたようにいった。 その時、後ろの方から、どんどんという音が聞こえた。リビングのすぐそこには裏口がある。もしかしたら、急患だろうか。 「あたし・・開けてみるね。」 「ちょっと、マリアちゃん。危ないよ。強盗だったらどうするの。」 「きっと、患者さんよ。大丈夫!」 マリアは、エミリーを振り切って裏口の方に近づいた。 「はい。どなたですか?」 マリアは鍵を手探りで外すと、がちゃりとドアを開けた。 がたっ・・・ いきなり、何かドアにもたれかかったような音がした。マリアは、音の聞こえた方に顔を向けた。相手が何も応えないので、変だなと思ったのだ。 「どなた?」 なにか、滴が落ちるような音がしていた。相手は、確かにそこにいるらしく、荒い息づかいが聞こえていた。 「どうしたの?」 突然、キャーッという悲鳴が聞こえた。エミリーの声だとマリアはわかり、そっとエミリーの方を伺ってみるが状況はわからない。 マリアには、状況がわからなかったが、そこには確かに人が立っていた。相手は、おそらくまだ若い青年だった。顔にまだどこかしらあどけないところがあったが、その顔は真っ青で少し呆然としているようにも見えた。そして、その顔の右半分は血で染まっていた。青年はびしょ濡れで、まるで海に落ちたかのようだった。そして、さらに全身朱にまみれていた。 そして、よく見ると彼は腹部を右手できつく押さえていた。そこから、おびただしい血が流れ出して、青年の足下に血だまりをつくっている。 エミリーやジャックは、その青年を幽霊かと思ったぐらいであった。それほど、彼は、凄まじい姿でここに現れたのだった。 何か言おうとしたのか口を開きかけたが、何も言うことができないまま、青年はそこに倒れこんだ。マリアは、何か大事が起こっている事を知りながらも、どうすればいいかわからず、しばらくそこにただ突っ立っているだけだった。 ふと、彼女の服の裾を引っ張る者がいた。青年が、血だらけの手で服の裾を引っ張っているのだった。彼女のお気に入りの青い寝間着に血のあとがついたのも知らず、彼女は力が加えられる方向に首を向けた。 「た・・助けてくれ・・・。」 掠れた声が、彼女の耳に届いた。 「助けて・・・。まだ・・・死にたく・・ない・・・。」 青年は、血を吐くような声でそういった。その声が聞こえなくなった途端、彼女の服を握っていた手は、急速に力を失ってずるずると服に線を描いたあと床に落ちた。 「誰?・・・・どうしたの?どこか・・・痛いの?」 マリアはどうすればいいのかわからずに、そう問いかけた。返事はなかった。なぜか、哀しくて泣きたいような気分だった。 エミリーとジャックは、目の前の光景に目を奪われて、何も出来ずにいた。その時、奥の診療室で書類の整理をやっていたウィリアム=アレクサンドラの声が聞こえた。 「どうした!?何があった!?」 走り込んできたアレクサンドラは、呆然とする二人とぼうっと立っているマリアを見て何か緊急事態でも起こったのかと思ったが、すぐにマリアの足下に倒れている青年に気付いた。その青年の様子を一目見て、アレクサンドラは顔色を変えた。 「まずい!」 というと、彼は青年の元に走り寄った。抱き起こして脈を診る。腹部の裂傷はかなり深いらしく、出血が激しかった。脈も呼吸も弱々しい。 正直、助かりそうもないとアレクサンドラは思った。だが、まだ生きている。生きているからには、助けてやろうと彼は決めた。 「ジャーック!!」 アレクサンドラは叫んだ。ジャックはようやく我に返った。 「は、はい。」 「まだ、息があるから助かる!!すぐに担架をもってこい!エミリー!湯を湧かして!それからマリアを見てやってくれ!」 アレクサンドラは軍隊の指揮官のようにきびきびと命令を飛ばした。エミリーもハッとして、慌ててマリアをひきよせた。 「せんせい・・・。」 マリアは、泣きそうな顔で尋ねた。 「このひと・・・大丈夫なの?」 アレクサンドラは、迷ったがすぐにそっとマリアの頭をなでるとわざと尊大な言い方でいった。 「大丈夫に決まっているだろう?私は天才だぞ?」 それをきいてマリアはようやく笑った。 青年の処置が終わったのは、夜もしらみはじめた時刻だった。休憩にとエミリーが出してくれた茶を飲みながら、アレクサンドラはため息をついた。 「やれやれ・・・。しぶとい奴だな。あれでよく息をしてると思うぞ。」 「え?先生、助かるっていってたじゃないですか?」 ジャックが、非難に近い声を上げる。 「そういわないと、意気が上がらないだろうが。まぁ、なんとか峠は越えたようだし、あとは本人次第だな。意識さえ戻れば、なんとかなるだろうて。」 ヌケヌケと彼はいうと、ぐっと茶を飲み干した。 「しかし、先生。」 ジャックが小声でいった。 「あの人、何者なんですかね?」 「さぁな。どっかの不良だということは確かだ。」 「不良って・・・。でも・・」 「おそらく、喧嘩かリンチかだろうが・・・。それにしても、酷いことをする奴がいるものだな。一番重傷なのは腹部の傷だが、あとは顔、特に右目を失明していないかどうか、今のところまだよくわからん。それから、あちこちに打撲傷があるし、切り傷も多い。肋骨も二、三本、折れているようだしな。びしょ濡れだったことから考えて海から上がってきたのは間違いなかろうが、よくここまで歩いて来られたもんだと感心するよ。」 「ひえぇ・・。い、痛そうですね〜〜!!」 ジャックが想像して、青い顔をした。 「まぁ、しばらく様子をみるしかないか。」 アレクサンドラは、緊張から解放されてようやく睡魔の訪れを感じていた。 次の日から、マリアは、その突然の来訪者の介抱をよく手伝った。熱に苦しめられている青年の額に冷たいタオルをおいてあげたりして、青年が気になるのか、楽しみにしていた散歩もとりやめてずっと傍について離れなかった。 ―――その青年の意識が戻ったのは、彼がここに運び込まれて一週間目の日の事であった。不意に青年は、目を開いた。真っ昼間だった。ちょうど窓が開けられていて、心地よい風が入ってきていた。天上を見上げたまま、彼はぼんやりとしていた。 (ここは・・どこだ・・・) 見たこともない場所だった。次第に意識がはっきりとしてきて、彼はこの前の事を思い出してきていた。 (そうだ・・!オレは、海に投げ込まれて・・・) いきなり身を起こそうとした彼の体は、突然悲鳴を上げ始めた。 「・・く・・!」 あちこちが痛んだ。特に胸から腹部にかけて、表現しがたい激痛が走った。息をするのも辛い。 「い・・いてえ。」 誤魔化すようにつぶやいてみる。冗談じゃない。と彼は思った。ふと、気付くと右目は包帯に巻かれているらしく見えなかった。左目で、そっと右手をだして見てみた。切り傷が細く走っていた右手は丁寧に包帯に巻かれていた。 (誰かが・・・助けてくれたのか?) 青年は首を傾げた。全く思い出せない。海の中に水柱をあげながら、飛び込んだことまでは覚えているが、それからどうやったのか。どうして助けられたのか?覚えがない。 ふと、近くに寄ってくる少女の姿が目に入った。まだ小さい子供だった。青年は、その天使のような子供に気付いて訝しげに思った。見たことがない上に、近頃は子供とは全く接点のない様な荒んだ生活をしていたので、少し意外な感じがしたのだった。 「あの・・・」 青年は、何と声をかけていいものやらわからず、かすれた声でそう声をかけてみた。少女は、辺りを見回しながらこう呼ばわる。 「今の声?誰?」 青年は、困ってどうしようか迷った。自分の姿が見えないのだろうか。 「・・い・・いやっ・・・。オレは・・・」 「え?」 少女はようやく彼の方を向いた。目は開いていたが、焦点はあってないようだった。 「もしかして・・・、目が覚めたの?」 「あ・・あぁ。」 青年は不器用に応えた。本当は、優しく応えてやりたかったのだが、どう優しくいえば良いのかがわからなかったのだ。だが、少女は、そんなこと気にしていないようだった。 「良かった!」 まだ小さな少女は、屈託なく笑った。青年は、あっけに取られたように少女の笑顔を見ていたが、やがて少しつられたのか微笑んだ。久しぶりに感じる安らぎだった。あちこち、体は悲鳴をあげていたが、それでも青年はなぜか救われたような気持ちになった。 しばらく、青年はアレクサンドラのうちに厄介になっていた。少々、ひねくれたところはあるが、根はいいらしくエミリーやジャックともすぐうち解けた。回復ははやく、立つことができるようになり、松葉杖をついて歩けるようになると、彼はマリアを連れて一緒に散歩に行ったり、雑用をこなしたりもするようになった。 特にマリアは、彼になついてよく二人で話をしていたり、買い物にいったりなどしていた。マリアは、名も名乗らぬこの青年を「お兄ちゃん」とよんで、慕っていた。荒療治が多いアレクサンドラだったが、青年は文句を言いながらも彼には感謝していたようで、逃げ出さずにちゃんと治療も受けていた。 しかし、三ヶ月ほどたったある日、彼は突然、買い物に行ったきりどこかに行ってしまった。アレクサンドラの机の上に書き置きがあり、今までの礼について丁寧に述べてあったが、彼の足跡を知れるものは何も残されていなかった。 それっきり・・・あの青年は消えてしまったのである。 「へぇ、丈夫な奴だな。」 「あれほど、丈夫な奴は、あれから今まで見たことがない。」 アレクサンドラは、妙な感心の仕方をしていた。 「だけど・・・、どうしていなくなったんだ?」 アルザスは、気になって尋ねてみた。 「それがわかるほど、奴の素性は知れなかったからな。書き置きにも何も書いていなかったし。」 「じゃあ、わかんないな。」 「アレがいなくなってからしばらくマリアの奴が寂しがってな、なだめるのに大変だった。」アレクサンドラは、頬杖をつきながらそう懐かしそうにいった。 「今、どこでどうしているやらさっぱりわからん。」 「そうか。元気でいるといいけどな。」 アルザスはそう言った。マリアが会いたがっているのだろうと勝手に判断して、また会ってやればいいのに。と何となく去ったその青年に対して、文句を言いたい気持ちだった。 手紙をポストに入れながら、ディオールはにこにこしていた。すると、横からティースがやってきて、にやにやしながら彼をつつく。 「なんだ?ディオール。彼女に手紙かぁ?」 「ち、ち、違うよ。彼女じゃないってば!」 ディオールは、少し照れていた。文通相手に行く先々で手紙を出しているのである。しかも、相手は孤児院時代一緒だった少女で、なかなかかわいかったのをティースは覚えていた。 「隅に置けないねぇ。」 「何いってるんだよ。ティースだって、昨日はがき出してたじゃないか。」 「オレのは違うもん。」 等といっていたが、ティースもティースで、同じように憎からず思っている少女にこっそりはがきをだしたりしている。もっとも、ティースはひねくれているので、文章をほとんど書くこともなく、名前だけ書いた絵はがきを相手に送りつけているらしかった。 「でも、ここはさすがに栄えてるね。」 ディオールは慌てて話をすり替えた。 「さすが、パージスだよねっ。」 「当たり前だろ。中継地点っていうのは、栄えるもんなんだ。」 ティースは、そう言い切ってそれから思い出したようにつけたした。 「しっかし、あの人も物好きだなぁ。面倒なことしちゃって。酔狂なんだからさぁ。」 「それが、良いところなんじゃないか。」 ディオールは「あの人」を弁護してやりながら、ティースの関心が、手紙からそれた事に安心していた。 戻る 進む ならず者トップへ 戻る 進む 一覧 背景:自然いっぱいの素材集様 |
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