辺境遊戯・幻想の冒険者達/©渡来亜輝彦2005

一覧

君の名は……


「そういえば、ふと思ったんだけれど」
 不意に妻に声を掛けられ、キィスは、首を傾げるようにしながら彼女の方を見た。
「何だ…」
「あなた、いつから私のことをちゃんと「アンヌ」と言えるようになったのかしら。前は、「アンネ」としかいえなかったでしょう?」
「……む、そう言われるとそうだな……」
 キィスは、ヴァッシス語の訛りがかなり酷く、人物名でもなまったまま読んでしまう。どう読むか頭でわかっていても、そう読まずにはいられない辺り、かなり不器用といえるかもしれない。
「士官学校時代、そういえば、お前に会ったときは言えなかったな。」
「それどころか、あなた、私のことを男だと思っていたようね……」
「い、いいや……そ、それは……」
 キィスは冷たい妻の視線にびくりとする。確かにそうなのだ、キィスは昔、士官学校時代、アンヌのことを、男だと思っていたらしい。それで、あんなきっ白い坊ちゃんに負けてたまるか、と異様にテンションをあげて張り合っていたことがあるのだ。
 実際、キィスとアンヌは、当時の士官学校で実技においても、勉学においてもほぼ同等のレベルをもっていたのでいいライバルといえるわけだが…。
 普段キィスは、アンヌの旧姓である「サワムラ」をとって「サワムラ」候補生と呼んでいたのだが、ある時、点呼を取るようにいわれたキィスは、アンヌの本名を呼ばなければならないのだった。その名前が「アンヌ=サワムラ」で、ヴァッシス語で読むと「アンネ」になる筈である。
『私の名前は、アンネではありませんよ。テルダー候補生。』
『私は、それ以外の発音ができんのだ! 私をなめているのか、サワムラ!』
『ちゃんと発音してくださらない限り、私に返答する義務はありません。』
 冷たくアンヌにそう言われ、点呼を取るのに三十分かかり、二人とも教官に怒られたことも、今となってはいい思い出、なのかもしれない。
「今はちゃんと発音できるでしょう? たまには改めて呼んでいただきたいですわね。」
「な、何! 今か!」
 妻が突然無表情なままにそんなことをいうので、キィスは、やや赤くなりながら慌てた。堅物の代表のようなキィスは、改めて妻にそんな呼び方をするのが照れくさくて仕方がないのだ。そして、次に少し青くなった。それは、この見かけからは想像できないほど強い妻に、もし間違った呼び方をすると何をされるかわからないからである。
「何も照れることはないでしょう。一応、戸籍上は夫婦ですからね、私たち。」
「ご、誤解を招くようなことをいうな! …う、うむ……ア、ア、アン……」
 じっと妻の冷たい視線に射られながら、キィスは、ついうっかりとこう発音してしまったのだ。
「アンネ……」

 
 その日、キィスが何故か台所でひたすら皿洗いしているのが見られたという。それが、アンヌ=マチルダによる仕置きなのかどうかは、彼の部下の間では確認の取れていないことである。

一覧

背景:自然いっぱいの素材集
©akihiko wataragi
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送