「ベンの家から、刃物もった男の子が逃げていったってきいたけどさ。大丈夫だったのかい?」
ショウが、あわててキッシンジャーを訪ねてきたのは、次の日のことだ。
ショウ=ロビンソンは、ちょっと悪いところもあるが、心の優しい子ではある。キッシンジャーが平気そうなのをみて、どこかほっとしたような表情を浮かべる少年は、なんとなくかわいらしい。キッシンジャーのような、考えの読めない男でも、ショウを、少なくとも人並みには、かわいがっているのがわかるのだから、ショウは本当にいい子なのだろうと、彼を追いかけてきたシスター・メイは改めて思う。
「でも、ベン、おもちゃの銃でよかったね」
「まったく。そうでなければ、震え上がっていたところだよ、ミスタア」
事情を知るものがいたら、一体どの口がいうのか、というようなことを、平然といってのけるキッシンジャーである。幸いこの場所には、そのときの彼の所業をしるものがいないから、キッシンジャーも言い放題だ。
「でも、気をつけてくださいね。キッシンジャーさん。かぎぐらいは締めないと」
「ああ、そうだね。これからは気をつけておこうかな」
気のない返事だ。キッシンジャーはいつだってそうなのだ。なので、シスター・メイもそれ以上しつこくいわなかった。
「でも、そのおもちゃの銃ってこれなんだな」
「なかなか洒落ているだろう、ミスタア」
ショウが机の上の銃を、じっくりと眺めて笑いかける。
「うん、かっこいいね」
どういう銃なのか知らないが、キッシンジャーの持っているのは、案外優美な感じの拳銃だった。コレクターが集めていそうな感じがする。
「へえ、キッシンジャーさん。アンティーク趣味でもあるの。私にも見せて」
メイは、興味津々といったようすで、机の上の銃を取った。意外に重い。
「やっぱり、本物は重みが違うのね。いくらおもちゃだっていっても」
「あ!」
メイが銃を振り回したとき、ふとキッシンジャーが声を上げた。
「え、なあに、どうしたの? キッシンジャーさん」
「いやいや、それはそうっと扱って欲しい気がするのだがなあって不意に」
キッシンジャーはなにやらごまかすような態度だ。メイは、妙に気になった。
「どうしたんです。キッシンジャーさん」
「うむ、まあ、その……ねェ……」
いうべきかいわないべきか、と、ちょっと迷ったそぶりをみせて、彼はようやく口を開いた。
「実をいうとだが、シスター・メイ、それはあんまりさわらんほうがいいかもしれんよ。だって結構危ない」
「え? でも、キッシンジャーさん、これはおもちゃの銃なんでしょう?」
「一発目はね」
ふと、キッシンジャーが何気なくいいやった単語が、その場の空気を凍らせた。キッシンジャーは、紅茶をゆったりと飲みながら、もう一言、何でもないような口調で言った。
「それ、二発目から実弾だから」
一瞬の後、メイの悲鳴が高らかに響き渡り、彼女が思わず放り出した拳銃が、簡単に陶器の花瓶を割って、中のチューリップが無残に散った。
シスター・メイに、デリカシーがないだの、子供もいるのに危ないだの、散々説教をくらったあと、キッシンジャーは、庭の花壇に水をやっていた。
ホースの先を軽く押さえて、ばーっとそれとなく水を撒きながら、平和すぎるほど平和な風景をぼんやりみていたが、ふと、彼はちらりと背後に目を向けた。
「おやおや」
相変わらず気のない声だ。声に気がなさ過ぎたのがよかったのか、声をかけられたものは、驚かなかった。
その人物は、キッシンジャーの背後の花壇のすぐ手前で立ち止まっていた。
昨日の少年だということは、別におもむろにじっくり確認せずともわかっている。
「やあ、いい天気だね」
「……」
少年は無言だ。妙な緊迫感が漂いそうな状況だったが、キッシンジャーは相変わらずである。
「いやだね。もしかして、昨日のこと、根に持っているんじゃなかろうね。アレは単なるジョークさ。ちょっとしたユーモアじゃないか」
キッシンジャーはにやりとし、ホースの水を止めた。
「まあいい。おなかがすいているんだろう? 何かあげようか?」
にやっと笑うキッシンジャーは、これ以上なく信用できないはずだった。それなのに、いつの間にか、少年は、家に帰り始めたキッシンジャーの後を追っていた。
少年自身も、その理由がわからないのかもしれない。
お菓子と目玉焼きを差し出され、少年はすぐさまそれにがっついていた。それをかわいい猫の雑誌を読みながら、時々見ているらしいキッシンジャーの目には、さほど満足そうな様子も見当たらない。というより、やはり、表情が読めないのだ。
子猫が戯れている雑誌をみながらも、正直、かわいいと思っているのかどうかもわからない。ただ、じーっと見ながら、時々笑みを浮かべているらしいので、好きは好きらしい。
食べる音だけが響く、奇妙な沈黙の中、不意に思い立ったようにキッシンジャーは声をかけた。しかし、目は、雑誌のかわいらしい猫が顔をあらっているのをじっと捉えたままだ。
「そうそう、この前君が壊した花瓶代を私にきっちりはらいなさい。消費税込みで」
「花瓶なんか壊してないだろ」
「あの後、私が動揺のあまり花瓶を割ってしまったから、君が壊したも同然さ、坊や」
「動揺なんかするキャラかよ!」
そう怒鳴って見るが、肝心のキッシンジャーは、猫の雑誌に目を落としていたりするので、少年はあきらめて、乱暴にクッキーを口に投げ込んだ。
「ああ、そうそう」
軽い調子でキッシンジャーは声をかけてきた。
「君だろう。少年院から逃げてる子っていうのは」
「だ、だったら、なんだよ」
見破られているのはわかっている。けれども、そういわれて改めて不気味になって、少年はおびえたようにいった。キッシンジャーは、と、いえば、子猫が戯れる写真をのぞきながら、相変わらずの無表情だ。
「……へえ、それじゃあ、私のほうが先輩だね、っと、そう思っただけのことさ」
「な、何だよ。先輩って……」
いいや、なあに、と、キッシンジャーは軽く言った。
「私ね、昔、そこの少年院にぶちこまれたことがあったから」
さらりといわれて、さらに少年はきょとんとした。
「若気の至りだね。思わず二人ほど半殺しにしたからだったかな、いや、二人ではすんじゃいないか。正直何人やったか覚えてない。あの時私はわかかったから、見境がつかなかったからね。相手が死ななかったのが不幸中の幸いさ」
キッシンジャーは、流れるような口調でそういった。いつの間にやら、彼は雑誌を閉じて横においていた。
「……ま、またどうして」
少年がつぶやいた言葉に、キッシンジャーは薄く笑んだ。人をからかうような笑みではないが、やっぱり真意はわからない胡散臭い笑みではある。そうだけれども、口の端になぜかほんの少し哀しそうな表情が浮かんだような気がするのは、単に錯覚なのかもしれない。
「それは、気に食わなかったからじゃないかな。……というより、若い者同士の喧嘩だよ。……あのころは、自分の体面を保つことのほうが大切だったんだ。そういうのに覚えはないかね?」
もしかしたら、この親父は自分をかついでいるのかもしれない。少年はそう思ったが、けれども、なぜかその言葉には充分な裏づけがあるような気がした。
あのときの彼の目だ。
あれは獣の目だ、と少年は思う。穏やかな隠居老人の目などでは絶対にない。獲物を狙うときの猛禽の鋭い瞳ほど清廉でもなく、どこか空虚な殺気に彩られた目だった。空腹の野獣のようにがつがつした、荒んだ目だった。少年院には、そういう目をしたものはいくらでもいる。けれども、この男の目は特別だ。
だって、今、こうして話をしているときのキッシンジャーは、静かな目をした表情の薄い上品な紳士風の男であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。眼鏡のガラスに隠されたように、その瞳は穏やかだった。
だから余計気になった。一度逃げて、捕まるかもしれないのに、様子を見に来てしまったのは、そういう理由からだったのかもしれない。けれども、少年にだってその理由はわからないのだ。
もしかしたら、当のキッシンジャーの方が、その辺の事情を知っているのかもしれない。キッシンジャーは、相変わらず本意の見えない笑みを浮かべていた。
「別に説教なんてするつもりはないよ。だって、そうじゃないかね。私が君にどうこう言う権利はないわけだし、正直、私が君くらいの年のころには、もっとひどいことをやり放題やっていたし。何度も脱走したし、その度に街の不良を二人ほど半殺しにして金を強だ……いやいや、お願いしてお借りして逃亡生活を満喫したりしてね」
「……それは強盗じゃねえのか」
「失礼な。かわいそうな逃亡少年にめぐんでくれたにちがいないじゃないか」
「さっき、強奪って聞こえたが……」
「まあいいじゃないか。もう時効が成立しているものの話だ」
ぜんぜんよくない気もするが。少年は、目の前の男の所業にややあっけにとられてきた。少年も大概悪いことはしたが、目の前の男はもっとすごいことをしていそうである。しかも、悪事を働いた末、こういう風に平然と暮らせているあたりがますますよくわからなかった。
少年の思惑など知らず、キッシンジャーは一人話を続けた。
「でもねえ、人を殴ると、後でちょっとだけ心が痛むことがあるだろう。実際殴ったら手もいたいわけだし。それを、積み重ねていくと、かなりなものさ。そろそろ、ちょっとだけ考えるようにしてごらん。私みたいになってもしらないよ」
少年は、キッシンジャーを見上げた。「私みたい」といっても、少年には、キッシンジャーがどういう人間かはほとんどわからなかった。彼にわかるのは、キッシンジャーが「まともな人間ではないらしい」というぐらいである。
「私ぐらいになると、殴った痛みがわからなくなってしまうのさ……」
キッシンジャーは意味ありげににやりとした。
「君だって、私みたいに得体の知れない生き物にはなりたくないだろう? いいや、普通、私みたいなことをしていても、得体の知れない生き物にはならないらしいんだけれどね。もっと、ちゃんとした悪党になるさ」
キッシンジャーは、相変わらず薄い表情で言った。
「……戻るなら今のうちだよ、坊や。今はおとなしくお帰り。半年も我慢すれば、すぐに出られる、さ。長い人生のうちのたった半年だよ。……今はわからないだろうけどね、どれだけ人生が長いかなんてさ」
少年は何も言わない。だが、キッシンジャーの意見に反論するでもなかった。それをどうとったのか、彼は薄い笑みのまま続ける。
「君が私の遠い親戚のはとこのいとこのおいっこで、どうしても私に会いたかったからこっちにでてきたんだって、そう説明してあげるよ」
「口からでまかせだな。あんた」
少年は、思わずあきれたような顔をした。しかし、ほんの少し少年が笑いをもらしたのに、キッシンジャーは気づいただろうか。
「ああ、そうだ、坊や」
少年はむっとした顔になった。
「坊やはやめろよ」
「それじゃあ、少年」
「同じようなもんだろう」
「それじゃあ、ミスター」
ショウと違って、妙な発音はつけずにキッシンジャーは呼びかける。一人前扱いに、満足したのか反論しない少年を見て、キッシンジャーは、にんまりと微笑んで、すかさず手を出した。
「花瓶代は負けてあげるから、そのかわり消費税だけ払ってくれるかね?」
少年は一瞬、口をあけたまま固まったが、やがてその意味を理解すると苦笑を浮かべた。
本当に得体が知れない。こんな男にかなうはずがなかった。
キッシンジャーの表情は、相変わらず読めない。けれども、少年は、どうして逃げ切れないとわかってから、自分がここに戻ってきたのか、なんとなくだかわかったような気がした。もちろん、理由を説明はできないがなんとなく。
キッシンジャーは、どうして彼がここにきたのか、多分理由を知っている。